日記
【コラム】東京バイツ 第120回 執筆=福冨忠和 情報を盗んでもドロボーとは言えないことの歴史的な経緯 from MYCOM PC WEB (20:17)Edit

>「データはモノではない」。この考え方ははたして、世の中にとって合理的なものなのだろうか。

データとモノの違いというと、完全な複製が可能な点が挙げられるけれど、

>ネットゲームの「リネージュ」の登場キャラの装備品(のデータ)をネットオークションで販売した

の場合は「完全な複製がシステム的に不可能である」ところが違うな。ネットゲームにおけるデータはそれ単独で成立するものではなく、それを取り巻く社会(ゲームシステム)および人間(プレイヤー)との関連性に基づいて成立しているものだから、技術的にコピー(元のプレイヤーに以前と同一の装備を戻す)したとしても、それは同一の複製とは言い難い。

という話はあまりにも枝葉末節に過ぎるか。

本論としてはやはり、デジタルデータに関する所有権著作権などを、今後どのように捉えていくべきかという話になるんだろうな。完全な複製をされうるという前提の元にその利用配布をどのように制限するのか、あるいは制限しないのか。現在デジタル化可能なデータの利用権・配布権で飯を食っているところは、「制限をしない」なんて選択肢を考えたくもないだろうけど。

試しに制限をしないという方向で考えてみる。たとえばあらゆる音楽データはすべて自由に配布しても構いませんよ、ってことにしてみる。

そうすると、人気のある音楽はネット上であっという間に広まる。しかし品質の不均一さとかデータの信頼性とかの問題も出てくるだろう。そこで、品質とデータの信頼性を保証する代わりにお金を取るという商売も成り立ちそうだ。現在のレコード業界の規模を縮小したイメージ。手数料の数パーセントを著作者に支払う。

あと、著作者が音楽制作を主な収入源にしている場合、その作者が食っていけなくなると、次の曲が発表されなくなる。それでは困るという人が、その人に次の音楽期待料みたいなものを払う感じの仕組みも出てきそうだなー。それはまるで昔の、音楽家パトロンの関係を、パトロンを薄めて引き延ばしたみたいな感じだな。

あと従来通り、他人の著作物を商業的に二次利用する場合は、その使用料を支払うという仕組みは残しておく。無償での配布はOKだけれども、それを使って金を儲ける場合は分け前寄こせ方式。

何らかの目的のために、金を持っているところが著作者に直接新しい曲を書いてもらったりする場合もあるだろう(ゲーム音楽とか映画音楽とか)。そういう収入源もある。規模がでかくて一回こっきりのパトロンみたいなものか。

それ以外にも、ライブとかコンサートみたいなデジタル化できない収入源も残るだろうな。

思いついたのは以上のような感じなんだけど、たとえば以上のようなパターンの収入によって、音楽著作者は食っていけるものなのかなー。

Published At2003-03-14 00:00Updated At2003-03-14 00:00