日記
リンクの拒否権 (13:51)Edit

2004/2/8

ゲストブック認証+閲覧者数制限によるアクセス制御」へのネタ振りとして4年前の文章を再掲載しただけなのに、こっちの方にばかりアクセスが集中する(via 個人ニュースサイト系)のはなんかいやだなー。あくまでもこれは、4年前の段階での考察なんですからね、一応。まあ「ゲストブック認証+閲覧者数制限によるアクセス制御」は技術論なんで技術者以外は楽しくないかもしれないけど。


2004/2/7

最近いろいろ話題になったネタについて、4年前に書いた(http://ishinao.net/ruins/text/01.htm#20001025224346)文章を発見したので、こっちにも転載しておこう。これからさらにいろいろ考察は進んでいるんだけど、核となる部分はこの文章にだいたい含まれているので。以下転載。


2000/1/7

リンクに拒否権はあるのか,あるいは拒否権というものが必要なのか?

リンクを拒否したいと考える人は,リンクされることによって自らに不利益を被る可能性を,拒否したいのだろう。自分にとって好意的な言及とともにリンクされるのはかまわないが,自分に対して批判的だったり悪意を持った言及を伴ったリンクはされたくない,という話だ。

確かに,リンクされることによって不利益を被る場合はあり得る。自分(の書いた文章)に対するネガティブなコメントとともにリンクされることによって,Web社会(ってのも曖昧な言葉だが)上に自分の悪評が広まるかもしれない(もちろんその批判があまりにも的はずれな場合は,リンクをした方の悪評が広まるだろう)。

これはたいていの場合,そのような批判されうる文章を書いたことに対する真っ当なつけを払わされている(という表現はあまりにもネガティブか。「発言の責任をとる」と読み替えても可)だけのようにも思える。

しかし,もしかしたら先入観無しで読んだ場合は特に問題のない文章でも,ネガティブなコメントという意識誘導を伴うことにより,本来よりも不当な悪評を生じうるかもしれない(仲間意識ってものが目の鱗となり理屈をねじ曲げてしまうことは,世の中珍しくない)。

また,自分にネガティブな印象を持った人間のアクセスが増えることによって,掲示板やメールなどで自分を攻撃する人間が増える,という不利益もあり得る。

これも基本的には自業自得の範囲内の出来事ではあるが,作者本人にとって不利益であることは間違いないし,先ほど挙げた意識誘導によって,本来の賛否両論バランス以上に不当な攻撃が増える可能性もあり得ることを考えると,そうそう自業自得とばかりは言っていられない。

しかし,不利益を被る可能性があるからという理由だけで,リンクを拒否できるものなのだろうか?

Webに限らず一般的な著作物(と言った場合,主に一般に流通する出版物を念頭においている)は,著作権法によって守られている。一般的な著作物の引用においてもWeb上のコメント付きリンク同様に,著作者が不利益を被る可能性はありうる。その不利益の内容もほとんど同じだろう。

一般的な著作物においては著作権法によって,第三者による引用が権利として認められている。「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるもの」であるならば,権利者の許諾なしで引用することが可能だ。ただし「著作物の出所を、明示しなければならない」という義務がある。

Webにおけるリンクは,引用の延長として考えることができる。「その出所を明示する」という条件は,もちろんリンク先のURLが明記されているので問題ない。「引用の目的上正当な範囲」というのは,要するに引用文が主であってはならない(引用文が主ならば,それは言及のための引用ではなく,ただの複製(コピー)になってしまう)ということだ。コメント付きリンクの場合は「引用文がゼロである引用」と考えることができる。Webでは引用元の参照が簡単にできるため,引用文を完全に省略することが可能なわけだ。

と考えると,一般的な著作物において第三者による無許可の引用が認められているのと同様に,Web上での第三者による無許可の引用と,その延長にある無断リンクは著作権法的に認められるものと考えられる。

だとすると,多少の不利益を被る可能性があるからといって,著作権法に明記された権利を制限していいものとも思えない。

発言する権利の裏にはその発言に対する批判を受ける義務が生じるのであり,自分の快不快の問題で義務を放棄するのは無責任すぎるのではないだろうか。

ただし,上記の議論はWeb上に公開された著作物を,一般的に「公表された著作物」とまったく同様に扱うという前提の上に成立している。では,その前提が本当に成立するのだろうか。

「Web上に公開された著作物は,一般的な著作物と同様に扱われるべきだ」とする人の主張は,おそらく「世間一般に公開されるWebというメディア上に自分の意志で掲載したのだから」という,発表メディアの機能から逆引き的にその一般性の根拠を見つけだしているのだと思われる。

わたしも基本的には同感なのだが,いくつかの異論も持ち合わせている。その第一としてあげられるのは,「掲載した人間の意図として,どこまで一般的な著作物として発表したかどうか」の問題だ。

Web上に公開された著作物は,他の一般的な著作物よりも,非常に手軽で私的な著作物であることが多い。多くの個人Webページは,著作者一人の手で執筆・編集・出版がなされている。またその制作にかかる日数も非常に短い。

Webにおける著作物は,世間一般に公開されるWebというメディアの一般性の強さに比べて,その制作に関してはあまりにも私的個人的な部分が大きい。

また,制作者による仮想読者の設定に関しても,おそらくは非常に狭い範囲を想定している場合が多いだろう。また実際問題として,その読者数は多くの場合ほかの一般的な著作物よりも非常に少ない。

第三者によるチェックを受けることなく,ごく個人的な作業によって制作・発表され,それをごく少数の人間が見る。そして作者本人が,そういうものだという前提で制作している。それがたまたま一般性の高いメディアに掲載されたからといって,世間一般に発表されたと言い切っていいのだろうか。

たまたま一般性の高いWebというメディアを使っているが,その読者対象としてはごくごく身内の人間だけを対象にしているつもりの,作者本人は一般性を意識していないWebページというものは少なくない。そのようなWebページをも,まったく一般的な著作物と同様に扱っていいのだろうか。

そのような私的な著作物は,一般に公開されるWebというメディアに掲載するな,という反論はあるだろう。

しかし,Webというメディアはある程度人数の多い内輪の話をするには,とても便利なメディアだ。それよりも便利なメディアが見あたらないのだったら,Webを内輪の話をする目的で使うのはありだろう。

ならば,アクセス制限などでロックをかけろ,という人もいる。

しかし,Webに著作物を掲載するだけならば,その技術的な敷居は非常に低くなっているが,それにアクセス制限をかけるという技術的な敷居はまだまだ高い。手軽で便利だからという理由でWebを使っている人ならばなおさら,アクセス制限という技術を身につけるのは難しいだろう。

この議論について考える場合,わたしは道ばたで会話している人とその周囲を通り過ぎる人の光景を思い浮かべてしまう。

道ばたで会話している人たちは,周囲の人にも聞こえるような声で話している。別に周囲に聞かせたいわけではないが,お互いにしか聞こえないような小さな声で会話をするよりも,周囲にも聞こえる程度の大きな声で話した方が手軽だからだ。

しかし,話している内容がそばにいれば聞こえるからといって,わざわざ聞き耳を立てている人がいる。そして,会話の途中で気に入らない内容があったからといって,突然会話に割り込んで文句を付けはじめる。

よほど犯罪性のあるような問題のある発言をしていたのだったら,まあそれもありだとは思う。しかし,多少問題があったとしても聞き流しておくのが,ふつうの対応だろう。

とはいうものの,やはりわたしは,基本的にはWebは公開されているメディアであるので,そこに著作物を掲載する場合はその著作物に対する批判を受ける義務が生じる,という立場を取る。

そのあたりは,田舎と都会の違いのようなものだ。

田舎では家の鍵などいつでも開けっぱなしにしており,身内の深い話なんかもご近所で簡単にしゃべってしまったりする。一方都会では,基本的に親しい人間以外は信じない方がいい。ちょっと外に出るときにも家にはきっちり鍵をかけないといけないし,人が訪ねてきても簡単にドアを開けてはいけない。身内の話を外部に漏らしたら,それを悪用されるリスクを考えなければならない。

究極を突き詰めれば都会の方が正しいのだろう。しかし,多少いい加減でもそれなりにやっていける田舎の生活は,実際問題としてそういうコミュニティとして成立しているのだから,それはそれで問題ない。

ただし,田舎の生活もいずれは都会のように変わっていくものだ。どんな田舎に行っても家には鍵がかかっており,訪ねてきた人を簡単にドアを開けて迎え入れるということがなくなるときが,いつかはやってくる。

それならば,現状は現状として容認しつつも,将来のための心構えは啓蒙しておいたほうがいい。

蛇足だが,Webの今後の発展を考えると,パブリックなWebページとプライベートなWebページを簡単に使い分けることができるインフラを整えていく必要があるだろう。現在実現可能なアクセス制限のような不便な仕様ではなく,もっと洗練されたアクセス制限の手法を考え出したら,一財産築けるかもしれない。

追記) 一行コメント付きメールで「リンクの拒否権とアクセス制限の問題をプライバシーの観点から考えています。公開する方向と範囲をコントロールしたいという欲求があるのではないかと思っています。」というコメントをいただいた。

「公開する方向と範囲をコントロールするためのアクセス制限」というのは面白いテーマだ。プライバシーについての考察は今回は意図的に省略したのだが,今から考えるとやはり絡めて考えた方が良かったようにも思える。

このネタは,まだまだ考察をする価値があるテーマだ。いずれ続きを書こう。

Published At2004-02-07 00:00Updated At2004-02-07 00:00