日記
客観的な判定基準 (13:51)Edit

自分の方の話は、(分かってはいたけど)その不毛さにちょっと疲れてきたので、GTDネタとかで脳みそがリフレッシュされるまで中断することにして、highbiscusさんとτさんの間でやりとりしている、井上雅夫さんの手による「米国著作権法102条(b)項の解説文」の読解について、取り上げてみます。

ポイントは、元の井上さんの文章の、

プログラムは何らかの機能を有しているのであり、ソースコードあるいはオブジェクトコードの表現の複製、翻案を行えば、それに伴って、その機能もコピーされる

における「ソースコードあるいはオブジェクトコードの表現」の解釈でしょう。

τさんはblog@なゆきすと : 「プログラムの表現」とは何かにおいて、

井上氏の解説内で使われている「プログラムの表現」という言葉は、「メディアの上に表現されているプログラムコードそのもの」を指すと考えるのが妥当であろう。

というように、その「ソースコードあるいはオブジェクトコードの表現」とは、ソースコードあるいはコンパイルされたバイナリコード自体を指す(その実行された画面表示などは含めない)と解釈しています。もちろん私もそう解釈します。著作権に関する文章における「表現」という言葉の意味を理解していれば、そう読むのが当たり前です。

一方highbiscusさんは、単に102条bの表現侵害規制の判例を語ってるだけでしょ : highbiscus -北国tvによれば、

プログラムとはなんらかの機能を有しているのはあたりまえであるが、ソースや表示をコピーして、これは機能(アイディア)のコピーであるからいいのだ!って論理は間違いで、それは著作権侵害です、と述べている。

のように、コンパイルされたバイナリコード自体だけではなく、それを実行した際の表示なども含めて、「ソースコードあるいはオブジェクトコードの表現」であると解釈しています。この文章は、Whelan判決における「アイディアのコピーも著作権侵害だ」を表現している文章だ、という主張らしいです。

さてどちらが正しいのでしょう。この件については、客観的な判断基準が存在するので、いつもの不毛な言い合いを続ける必要がありません。実際に元の文章を書いた人に、どちらが正しいのかを聞いてみればいいわけですから。

そこで、「プログラム関連米国判決集ホームページ」の井上雅夫さんに、米国著作権法102条(b)項の注釈文における「ソースコードあるいはオブジェクトコードの表現」の解釈についてメールで尋ねたところ、それは単に「ソースコードとそれをコンパイルしたバイナリコード自体」を意味しており、そこにおける「表現」という言葉には「オブジェクトコードを実行した際の表現(画面表示など)」という意味合いまでは持たせていない旨、ご返答をいただきました。

というわけですので、少なくともその注釈文において、井上さんが「オブジェクトコードを実行した際の表現」について語っているわけではないことになります。

※上記2段落の文章は、井上さんにその内容に間違いがないか確認していただいた上で、そのまま*1掲載しています。

こうやっていつも客観的な判断基準があるといいんですけどね。

*1 正確には、最初の「そこで」を付け加え、敬称の「様」を「さん」に変更してある

Published At2005-08-25 00:00Updated At2005-08-25 00:00