日記
誠実という評価の不確かさEdit

実際のところ、「誠実な人」「不誠実な人」がいるわけではなく、実際にあるのは「誠実な態度」「不誠実な態度」であろう。それは、ある状況において、ある人によって観察された、一つの出来事である。

そのような出来事がいくつも積み重なることによって、「誠実な人」「不誠実な人」という評価が固まっていくが、それは理論的に再現性が保証された事実ではなく、単にある限られた状況において、ある人の目からはそのような出来事が多く観察されたという話であり、結局のところそれはある人の印象にすぎない。

また、「誠実な態度」を取った人が「誠実な人」であるかどうかはわからない。「誠実な態度」は(近年のネットワークがメディアとして有効に活用される状況においては)戦略的に有効であるので(不誠実な態度によってネットワークを介して広まる悪評は、即効性の毒のようなものだ)、つまりある人が「誠実な態度」を取っているのは単なる合理的な判断によるのかもしれない。

逆に(特に知的に)誠実な態度を採用せず、「俺は信じたいから信じる」のような態度を取る人が、「不誠実な人」であるというわけでもない。そういう態度を取る人にいわゆる「いい人」(時には「誠実な人」と評価される)が多いのも現実である。

日常的な行動の多くは、人に対する印象を判断基準として採用してもかまわないだろう。しかし、そのような印象レベルの評価とは別に、ありとあらゆる情報を用いての判断が必要とされることも、場合によってはあり得るし、そのような場合は印象ではない評価をきちんと行うべきであろう。

そのような評価を行う際に、「何らかの差別的に扱われかねない事実を考慮に入れるべきかどうか」については、近代においてはそのような判断基準はできる限り重視しない態度が是とされる。基本的には私もその態度が望ましいとは思う。

しかし、「その事実自体を完全に無視するべきだ」あるいは「その事実は知らされない方が望ましい」とは思わない。そのような事実はきちんと知らされた上で、その事実をどのレベルで採用するかを個々人の判断に任せることが望ましいと思う(現時点において、それがいい結果を生むかどうかはさておき、理念としては)。

もちろんこのような一般論には、合致する事例もあるだろうし、合致しない事例もあるわけだが、一般論は一般論であって、現実に適用する際には、それぞれの実情に合わせていく必要がある。この段落はエチケットペーパーである。

Published At2006-03-16 00:00Updated At2006-03-16 00:00